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2007/05/02のBlog
[ 10:21 ] [ 山と峠と三角点 ]
先年の台風23号の出水で架かっていた木橋が流れ、登山靴を履いたまま濡らさずに渡るのに一苦労。濡れ石は良く滑るのと小さくて不安定。ふじもと様が川辺の倒木を渡して足場を作ってくれる。対岸手前の部分も難所。持っていた登山杖は短すぎて役立たず、長さを伸ばすとすっぽ抜けてしまった。元に嵌らないのでそのまま持ち使用を諦める。何とか体勢を立て直し大きく飛び越える
2007/05/01のBlog
[ 11:57 ] [ 山と峠と三角点 ]
2007/04/30のBlog
[ 22:51 ] [ 山と峠と三角点 ]
[ 06:24 ] [ 山と峠と三角点 ]
山の宝石「ヤマシャクヤク」に会いに行った。先の台風に伴う出水で谷川にかかる橋は流され、足場の不安定なまま濡れた石づたいに案内のふじもと様に助けていただいて渡河した。
砂防ダムの上斜面を行く山道も荒れ果てて、足を滑らせると下まで止まるところなしの急斜面。捉まる植生や岩石も殆どない山道跡を一歩一歩確保しながら横切り、上り詰めてしばし、待望の「ヤマシャクヤク」に出会えて大満足!
砂防ダムの上斜面を行く山道も荒れ果てて、足を滑らせると下まで止まるところなしの急斜面。捉まる植生や岩石も殆どない山道跡を一歩一歩確保しながら横切り、上り詰めてしばし、待望の「ヤマシャクヤク」に出会えて大満足!
2007/04/13のBlog
[ 16:17 ] [ 山と峠と三角点 ]
ウラシマソウ
洪水の下になり何とか生き延びたが減ったと云われる。先年見たときよりも少しずつ増えているのが嬉しい。山野草はしっかり保護しないと絶滅すればそれまで!自然界の宝石!!
汗して急坂を下りて現地で見てこその山野草。盗掘などは以ての外。1本の植生でも種の存続に極めて重い命。
全開には未だ少し早かったが、花の先端から伸びる髯(ひげ)は60cm程になっていた
洪水の下になり何とか生き延びたが減ったと云われる。先年見たときよりも少しずつ増えているのが嬉しい。山野草はしっかり保護しないと絶滅すればそれまで!自然界の宝石!!
汗して急坂を下りて現地で見てこその山野草。盗掘などは以ての外。1本の植生でも種の存続に極めて重い命。
全開には未だ少し早かったが、花の先端から伸びる髯(ひげ)は60cm程になっていた
[ 08:35 ] [ 山と峠と三角点 ]
2007/04/12のBlog
[ 11:33 ] [ 山と峠と三角点 ]
舞鶴の ふじもと様からメ-ルがあり、舞鶴・綾部市境の「三角点:瀬戸」(字名)に登った。今度稜線を登尾峠まで縦走すると書かれていた。ふじもと様は舞鶴側から登られたが、私が八代町から登ったHPを見られた(ここをクリック)連絡であった。
この瀬戸越えのル-トは、安倍貞任(さだとう)・宗任(むねとう)兄弟が前九年の役(1051年)で源頼義に敗れたが、真倉の不動さんがここの裏になり、そこから宗任は落ちのびてこの地で死んだという伝承があり、八代神社に祀られているということである。また八代、黒谷には「キラレ」と呼ばれる場所があり、平家の落ち武者が切られた伝承が祠と共に残っている。
八代町は山里なのに、その中心に「浦島神社があり、その前に面白い形の岩が二本立っていて」、それに手を当て目を瞑ると「潮騒」が聞こえる錯覚をおこしそうである。静かな山里の八代川の傍らなので、何故「瀬戸」「浦島神社」なのか不思議に思われる。
浦島神社は丹後半島一周の文化財研修で訪れたところである。浦嶋神社(宇良神社・伊根町本庄浜)
日本人の誰もが知っている浦島伝説で名高い「浦嶋神社」「日本書記」に雄略天皇の御代、水の江の浦嶋子、仙亀にひかれて海神の都にわたり・・云々」とあり、当時の丹後の名族であった浦嶋一族の業績をたたえて創られたという。そんなことをメ-ルで、ふじもと様とやりとりしていると「ウラシマソウ」の花時ですよと付記が書かれていたので早速見に走った
この瀬戸越えのル-トは、安倍貞任(さだとう)・宗任(むねとう)兄弟が前九年の役(1051年)で源頼義に敗れたが、真倉の不動さんがここの裏になり、そこから宗任は落ちのびてこの地で死んだという伝承があり、八代神社に祀られているということである。また八代、黒谷には「キラレ」と呼ばれる場所があり、平家の落ち武者が切られた伝承が祠と共に残っている。
八代町は山里なのに、その中心に「浦島神社があり、その前に面白い形の岩が二本立っていて」、それに手を当て目を瞑ると「潮騒」が聞こえる錯覚をおこしそうである。静かな山里の八代川の傍らなので、何故「瀬戸」「浦島神社」なのか不思議に思われる。
浦島神社は丹後半島一周の文化財研修で訪れたところである。浦嶋神社(宇良神社・伊根町本庄浜)
日本人の誰もが知っている浦島伝説で名高い「浦嶋神社」「日本書記」に雄略天皇の御代、水の江の浦嶋子、仙亀にひかれて海神の都にわたり・・云々」とあり、当時の丹後の名族であった浦嶋一族の業績をたたえて創られたという。そんなことをメ-ルで、ふじもと様とやりとりしていると「ウラシマソウ」の花時ですよと付記が書かれていたので早速見に走った
2006/12/09のBlog
[ 09:18 ] [ 山と峠と三角点 ]
「犬越峠」か「大越峠」か?
拙文を綾部の文化財を守る会の四方續夫事務局長に「峠マニア」として紹介したところ、
>大越峠です。ここから和知へ抜けたと武吉町の久保自治会長の書類に書いてありました・・との連絡がありました。
直訴に旅立った3勇士の出国ル-トはやはりこの峠経由だったようです。
ここで「大越峠」とあり、取り敢えずキ-ワ-ド検索してみました。最初の「犬越峠」の名称は山仲間の人から教えていただいたものです。
全国峠道一覧には「大越峠」が沢山ありますが、京都府下では「大越峠」は1件も検索で出ません。
次の2点が「犬越峠」を採用していました。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』は一応の権威か?と思います。また山仲間では「犬越峠」が通称のようです。
拙文を綾部の文化財を守る会の四方續夫事務局長に「峠マニア」として紹介したところ、
>大越峠です。ここから和知へ抜けたと武吉町の久保自治会長の書類に書いてありました・・との連絡がありました。
直訴に旅立った3勇士の出国ル-トはやはりこの峠経由だったようです。
ここで「大越峠」とあり、取り敢えずキ-ワ-ド検索してみました。最初の「犬越峠」の名称は山仲間の人から教えていただいたものです。
全国峠道一覧には「大越峠」が沢山ありますが、京都府下では「大越峠」は1件も検索で出ません。
次の2点が「犬越峠」を採用していました。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』は一応の権威か?と思います。また山仲間では「犬越峠」が通称のようです。
京都府道481号上杉和知線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BA%9C%E9%81%93481%E5%8F%B7%E4%B8%8A%E6%9D%89%E5%92%8C%E7%9F%A5%E7%B7%9A
綾部市武吉町~京丹波町西河内間の犬越峠では府道が途絶え、通行不可能となっている。また、この峠の周辺には無線中継所もある
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BA%9C%E9%81%93481%E5%8F%B7%E4%B8%8A%E6%9D%89%E5%92%8C%E7%9F%A5%E7%B7%9A
綾部市武吉町~京丹波町西河内間の犬越峠では府道が途絶え、通行不可能となっている。また、この峠の周辺には無線中継所もある
マウンテンバイクで山を駆け抜けておられる「山であそぼっの山あそ」さんのHPです
http://yama-aso2.web.infoseek.co.jp/hachibuse.html
犬越峠にあった石仏たちから引用
綾部市武吉から船井郡和知に行く場合、由良川沿いの平地を行くよりもこの犬越峠を越える方が段違いに時間が短縮できる。それら往来の多さを証明するように峠には石仏、石塔がある。まずは峠の石仏にはめずらしく千手観音。横手の石碑には中央に『南無地蔵大士』左に施主の名前、右に『文政十三寅(1830)三月日』とある。無という漢字が見たことのないもので面白い。ちなみに文政十三年は吉田松陰の生まれた年です・・
http://yama-aso2.web.infoseek.co.jp/hachibuse.html
犬越峠にあった石仏たちから引用
綾部市武吉から船井郡和知に行く場合、由良川沿いの平地を行くよりもこの犬越峠を越える方が段違いに時間が短縮できる。それら往来の多さを証明するように峠には石仏、石塔がある。まずは峠の石仏にはめずらしく千手観音。横手の石碑には中央に『南無地蔵大士』左に施主の名前、右に『文政十三寅(1830)三月日』とある。無という漢字が見たことのないもので面白い。ちなみに文政十三年は吉田松陰の生まれた年です・・
和知町仏主峠に接続する「大栗峠」、大栗部落(和知)、大栗山(市境)があり、綾部の「忠町:たった3町の一つ」にも下りられます。これとの混同が「大越峠」では?・・。「大越峠」の出典についても確認する必要がありそうです
上林・和知、美山境の峠は南から北へ、「犬越峠」-「大栗峠」-「上林峠」-「洞峠」-「尼来峠」-「尼公峠」-「管の坂(萓待坂」)-「永谷坂峠」・・と並びます
綾部市境の峠道一覧 http://www.nbcayabe.com/sisakaiy.htm
上林・和知、美山境の峠は南から北へ、「犬越峠」-「大栗峠」-「上林峠」-「洞峠」-「尼来峠」-「尼公峠」-「管の坂(萓待坂」)-「永谷坂峠」・・と並びます
綾部市境の峠道一覧 http://www.nbcayabe.com/sisakaiy.htm
最初に「犬越峠」の名称を教えていただいた舞鶴市のふじもと様からメ-ルがあり、林道開設の記念公園に建つ「民有林林道みちしるべ:和知町」の大きな案内図に書かれているとお知らせをいただきました。最上部の写真を部分拡大したこの写真が証明です。「犬越峠」に決定です。
四方續夫事務局長からも連絡が来ました。
>久保 自治会長の文でてきました。往路は上記の通りで、どの峠かかいてありませんが、三人を迎えて、国堺の山道=通常いなば堺に出迎え、ほんの心尽くししで、大根、柚子、唐辛子の生切れの肴で、慰労会をひらきーーーーと記載されています。お借りしている「丹の国綾部」をお返しする時、同封して置きます
HP「綾部の文化財」や「あやべの文化財日誌」の投稿について、歴史上の人名や地名など固有名詞の誤り校正が必要で、1人では思い込みなども入り不十分なので、ホ-ムペ-ジ委員会の中で投稿の相互チェックをしています。私のこのブログも上記HPの下書き校正を兼ねて作成しています
四方續夫事務局長からも連絡が来ました。
>久保 自治会長の文でてきました。往路は上記の通りで、どの峠かかいてありませんが、三人を迎えて、国堺の山道=通常いなば堺に出迎え、ほんの心尽くししで、大根、柚子、唐辛子の生切れの肴で、慰労会をひらきーーーーと記載されています。お借りしている「丹の国綾部」をお返しする時、同封して置きます
HP「綾部の文化財」や「あやべの文化財日誌」の投稿について、歴史上の人名や地名など固有名詞の誤り校正が必要で、1人では思い込みなども入り不十分なので、ホ-ムペ-ジ委員会の中で投稿の相互チェックをしています。私のこのブログも上記HPの下書き校正を兼ねて作成しています
2006/12/08のBlog
[ 08:29 ] [ 山と峠と三角点 ]
「たったのこんぴらさん」が行われている村々に通じる「犬越峠」の近くにある、パラボラ電波塔の「鉢伏山」は、和知稲継橋より 3.8Km 北方向 綾部に向かって右斜めに良く見える
「たったのこんぴらさん」で府道沿いの交通・駐車管理を勤められていた若い消防団員のお二人に「犬越峠」まで行ったことがありますかと聞くと、「昔は登ったと聞くが現在はない。自分も行っていない」と云われたのには失望した。この祭事の伝承となった舞台は「弥仙詣:黒石峠」と「江戸へ出国・和知大廉泊:犬越峠」「国境いなば境への出迎えと離別:犬越峠」と峠道経由なしには考えられないと思う。今は車で行動し、物事を考えがちであるが、祖先の行動をせめて村境までは実体験していて欲しいと思う
400mm望遠レンズで遠方より目立つ「鉢伏山のパラボラ電波塔」を撮りにGPSをつけて車でまわった。「武吉公民館」までしか行かなかったが、「犬越峠」に通じる「佃」の林道終点まで入るともっと良い地図になったと思う。
なお「釜の輪」の三角点「上滝ノ尾」の近くを通る「古峠」から、山家・谷藩主の庇護があったという「聖権現・日前(ひのくま)神社」に通じる山道もあり山家の広瀬町に出られる。
「上滝ノ尾」から鉢伏山の少し南まで高圧送電線の走る三角点「奥山」にいたる尾根がある。これは「釜の輪川」の上流にある「乙見渓流荘」の先に続く頭上を高圧線が横切る林道があるが尾根ちがいになる。さらに和知に出るにはもう一山・奥山の由良川まで続く稜線を越えなければならない。
追っ手を逃れての江戸への直訴道中、未明に出立したとして、何処から国を脱出し、和知の大廉の宿まで1日間の道を辿ったのかを考えると、また帰国直前に出迎えた国境の「通称いなば境」:和知の鉢伏山が良く見える、稲継の地名、稲継橋もある。は何処かを考えると興味が尽きない
なお「釜の輪」の三角点「上滝ノ尾」の近くを通る「古峠」から、山家・谷藩主の庇護があったという「聖権現・日前(ひのくま)神社」に通じる山道もあり山家の広瀬町に出られる。
「上滝ノ尾」から鉢伏山の少し南まで高圧送電線の走る三角点「奥山」にいたる尾根がある。これは「釜の輪川」の上流にある「乙見渓流荘」の先に続く頭上を高圧線が横切る林道があるが尾根ちがいになる。さらに和知に出るにはもう一山・奥山の由良川まで続く稜線を越えなければならない。
追っ手を逃れての江戸への直訴道中、未明に出立したとして、何処から国を脱出し、和知の大廉の宿まで1日間の道を辿ったのかを考えると、また帰国直前に出迎えた国境の「通称いなば境」:和知の鉢伏山が良く見える、稲継の地名、稲継橋もある。は何処かを考えると興味が尽きない
「たったのこんぴらさん」の伝承、峠道関係の部分抜粋
圧政に耐えかねた農民は暴政を幕府に直接訴えようと計画し、その使を屈強な若者3人が志願した。旅費を日頃修験道などで弥仙詣をして知る、他領於与岐村の庄屋吉崎五左ヱ門にもとめた。三村あげてのこの企を知った吉崎はすべてを覚悟してこれに協力した。
3人は死を決して出発、和知大簾で宿を借りたり・・・領主のさしむけた追手をうまくのがれ江戸についた。そうして幕府に訴え願はかなえられ、代官は罰せられて領民はすくわれた。
3人の帰路、藩の追及がその若者に及ぶことを恐れ、国境の通称いなば境で村役達は出迎え、ほんの心尽くしで大根,柚子、唐辛子の生切れの肴で慰労会を開き、若い3人の身の安全のため、因果を含め今後地元へ帰還することなく潜伏生活を依頼した。ついで3人の偉業を子々孫々に顕彰するため、純朴な農民はこの越訴が成功したのは、一に日頃信仰するこんぴら大権現の御加護によるものと願がけの通り千年の講を行うこととし、其の後毎年盛大な講を営むことになったという
圧政に耐えかねた農民は暴政を幕府に直接訴えようと計画し、その使を屈強な若者3人が志願した。旅費を日頃修験道などで弥仙詣をして知る、他領於与岐村の庄屋吉崎五左ヱ門にもとめた。三村あげてのこの企を知った吉崎はすべてを覚悟してこれに協力した。
3人は死を決して出発、和知大簾で宿を借りたり・・・領主のさしむけた追手をうまくのがれ江戸についた。そうして幕府に訴え願はかなえられ、代官は罰せられて領民はすくわれた。
3人の帰路、藩の追及がその若者に及ぶことを恐れ、国境の通称いなば境で村役達は出迎え、ほんの心尽くしで大根,柚子、唐辛子の生切れの肴で慰労会を開き、若い3人の身の安全のため、因果を含め今後地元へ帰還することなく潜伏生活を依頼した。ついで3人の偉業を子々孫々に顕彰するため、純朴な農民はこの越訴が成功したのは、一に日頃信仰するこんぴら大権現の御加護によるものと願がけの通り千年の講を行うこととし、其の後毎年盛大な講を営むことになったという
[ 07:42 ] [ 山と峠と三角点 ]
今年の「たったのこんぴらさん」が行われた近くの武吉町公民館前で刈り込みをするコンバイン。向かいの鉢伏山の上にパラボラ電波塔が目立つ
武吉町公民館より3.4Km西南方向 開けた所に全望できる
武吉町公民館より3.4Km西南方向 開けた所に全望できる
武吉町公民館前から撮影したパラボラ電波塔
綾部市と和知町の境に「鉢伏山」という「パラボラ反射鏡」が鈴なりに乗ったランドマ-ク(陸標)が見える。寺山からも良く見える。中丹広域農道の福知山から高速舞鶴道の陸橋をくぐった当たりからも進行方向真正面に見え、遠く綾部市境を意識させてくれる。さらに
十倉交差点より 4.7Km西南方向 進行方向正面
和知稲継橋より 3.8Km 北方向 綾部に向かって右斜めに良く見える
綾部市と和知町の境に「鉢伏山」という「パラボラ反射鏡」が鈴なりに乗ったランドマ-ク(陸標)が見える。寺山からも良く見える。中丹広域農道の福知山から高速舞鶴道の陸橋をくぐった当たりからも進行方向真正面に見え、遠く綾部市境を意識させてくれる。さらに
十倉交差点より 4.7Km西南方向 進行方向正面
和知稲継橋より 3.8Km 北方向 綾部に向かって右斜めに良く見える
京都に向かう由良川沿いの国道27号線、山家交差点付近から撮影。山家交差点より 5.9Km 西方向 進行方向正面右寄り
この「鉢伏山」のすぐ左下に「犬越峠」があり、府道481号(上林-和知)線(未開通)にあたる。
ホ-ムペ-ジ「電波塔のミステリ-鉢伏山(625.7m)を現地確認」
武吉~佃町を山に向かって進むとすぐに短い林道となる。終点から峠道が通じており急坂もなく手入れされた峠道である
この「鉢伏山」のすぐ左下に「犬越峠」があり、府道481号(上林-和知)線(未開通)にあたる。
ホ-ムペ-ジ「電波塔のミステリ-鉢伏山(625.7m)を現地確認」
武吉~佃町を山に向かって進むとすぐに短い林道となる。終点から峠道が通じており急坂もなく手入れされた峠道である